移住本決まり! 晩夏の満月に想うこと
暑いですね〜残暑は湿度が高くて本当に厳しいです。
昨日は雨が降ったりやんだり、夜には少し欠けてきた満月がこちらを見つめているようでした。
昨日、主人の転職先から書留で郵便物が届きました。
夫の帰りを待って、中身を確認すると「内定」通知でした。
あとは入社に関わるさ様々な書類が同封されており、返信して欲しいとのこと。
これで地方移住も本決まりです!
いよいよ現実味を帯びて、移住の道を進んでいくことになります。
地方移住を思い立ったのが6月上旬
静岡県庁に問い合わせたのが6/10頃
空き家バンクや移住サイトを調べて、この転職先を見つけたのが6/15
6/21人事の方と面談
7/5に第一回訪問、その時にはほぼ転職先と家の目星がつきました。
今後、癌サバイバー回顧録から地方移住までをつらつら書いていく予定ですが、
こうしてみると私の人生は「あれよ、あれよ」とことが進んでいくことが多いです。
過去のブログ記事を読んでも「あれよ、あれよ」という表現が多い笑
やりたいこと、行きたい道、望む方向へは
自分が思い切って最初の一歩を踏み出せば、その後周りが動き始め、
次々とやらなければならないことがやってきて、気づけば望んでいた場所にいる。
京都へ進学した時も、台湾へ留学した時も、
なんとなくのイメージ像と、なんとなく調べ始めたことから始まった。
最近、4年前の闘病回顧録を書き始めましたが、
衝撃的で鮮烈な体験だったはずが、書き始めると結構忘れ始めていることに気づきました。
だから自分の記憶を記録する意味でも書いています。
自分の体調の歴史が記されています。
今は全く薬に頼っていません。令和元年7/1から空欄になっていました。
振り返ると本当によくここまで回復したな〜と思います。
「あれよ、あれよ」の後には未知の世界が待っている。
そこにたどり着いたとき、新鮮で刺激的で、発見や戸惑い、不安が絶対にあるけど、
土壇場に立ったらもうやるしかない!
やるしかない!が繋がって、振り返れば自分の道ができている。
未来を作るのは自分だ
私、癌でした。 〜あれから4年、元気です!〜 <病院選びと人間模様>
病変が発見され、生検結果で癌と診断されてから、
落ち込んでいる暇なく、病院選びの決断が迫ってきました。
その時、私の体はもうプチ不調ではなく、
1日に1度は激痛に襲われるようなはっきりとした異変がありました。
プチ不調、東洋医学では"未病"と言いますが、
ほんの2、3ヶ月前に、
「疲れやすいな〜」「腹が不安定だな~」と思って漢方内科へ受診したのがきっかけでした。
そこから、血液検査→便潜血検査→大腸内視鏡検査 と検査を通して、
体の異変をその都度その都度発見され、
不思議なことに体の症状も比例するように、頻度と痛みの程度が高くなっていきました。
ほんの少しの違和感、気がかりが 大病発見のきっかけになり得るのです。
ターニングポイントとしては、
便潜血検査を受けた同時期に施術してもらった "腸もみマッサージ" が引き金だったと思います。
その日の翌日、今までにない激痛に襲われ、お腹の不調を深刻視したのです。
腸もみは、施術する人にもよりますが、本当にグイグイお腹を押したり揉んだりします。
その時私の腸にあった癌細胞は、腸管をぐるりと約1cm幅で増殖していました。
そしてもうすぐ腸の通りを塞ぐ寸前のところだったのです。
腸もみを受けて、腸の動きが急激に良くなり、狭くなった腸管に物が引っかかり始め、
腸管が異常に収縮、膨張し激痛をもたらした ということです。
さて、入院直前、私の目の前には、三か所の病院が現れました。
●近所の胃腸科提携の大学病院
●行きつけの漢方内科提携の大学病院
●職場が用意してくれた医療コンサル推薦のがんセンター
まず、私の中で会社推薦のがんセンターは選択肢から外れました。
それは、家から遠いことと交通の便の悪さが最大の理由でした。
それに、がんセンターはがん患者だけの施設です。
もちろん専門性があって、最新技術も持つ、そこが最大の魅力です。
でも私にはいいイメージができなかった。
気が滅入るんじゃないかとしか、そこにいる私を描けず、
また名医パンフレットで見たおそらく主治医になるだろう先生に、
なぜかあまり好意を持てなかった。
もちろんその病院に行ったことも、医師にお会いしたこともありません。
社長は、ご自身の医師の友人に私の症状を相談してくれていました。
そして大体の見解と、その時の最善の方法も教えてくれました。
そして「すぐに手術したほうがいい、大丈夫、必ず治ります!でも治療はできるだけ早く!」
「若いから、進行が早い。腕のいい医者にお願いするのが一番いい!」と本当に親身になってくれました。
だから社長が手配してくれた道を歩まない決断は、少し申し訳なく思いました。
でもどうしてもがんセンターに通う私は想像できなかった。
感謝の意を伝え続けて最終的に断りました。
残す2つの大学病院で悩むことになりました。
ひとつは、家からすぐ近く、通いやすい、主人や親も通いやすい。
病院は結構古くて、いつも人が多く出入りし、
棟があっちにもこっちにも点在しているイメージでした。
もう1つは、家から電車で一本、乗り換えなし 所要時間40分ほど 駅から歩いて10分弱
漢方内科クリニックと同じ最寄駅で、距離も割と近い
また約一年通った明大駿河台校舎と同エリアで、土地勘があった。
好きな本屋やカフェ、図書館がある。
病院自体とても新しく、入りやすい雰囲気
だけど1度、判断ミスした病院
後者の病院にもう一度行くことが決まり、
大腸内視鏡の検査画像と検査医師の診断書類がどうしても必要ということで、
漢方内科クリニックを出た後、胃腸科クリニックに電話し、
「もう一通同じ紹介状を書いて欲しい」と依頼した。
それから間もなくして、夕方に紹介状を取りに胃腸科へ行くと、
あのよく言えばクール、悪く言えば無愛想で冷淡な医師が明らかに不機嫌な態度で私を迎えました。
威圧、パワハラという言葉がよく似合う様相で、怖かったことを覚えています。
口を開いたと思ったら、
「こちらで手配した病院が不服なら、勝手にすればいい!」と開口一番言ってきました。
多分この一言で、私の気持ちがどこかで冷めました(覚めました)。
「先生のお気持ちを害してしまい、本当に申し訳ないですが、
以前から通っているクリニックの先生にも相談して検査結果が知りたいということなので、
もう一通検査結果だけでもお願いします。」と、どこか営業マンのようなスタンスで言いました。
はっきり言って、「もうこのパワハラ医者にかかることはない、書類だけもらって帰ろう!」と。
今思えば、この一件から、
医者は頼る存在ではなく、できないことをやってもらう存在であり、
"自分の体は自分しか守れない!自分の体は自分が責任を取る!"
という意識が徐々に芽生え始めた頃でした。
結局、しっかりした封筒と、簡素な封筒を二通受け取り、もう2度と行くことのないクリニックを後にしました。
翌日、午前中
明大のクラスメイトと、お姉さん的友人が付き添ってくれ、いざ漢方内科提携の大学病院へ
例の誤診した医者との再会です。
その旨友人たちにも伝えていたので、
「大丈夫!しっかり聞くことは聞いて、納得して決めよう!」と本当に心強かった2人です。
診察室へぞろぞろと入って行くと、
例の医師は「おおお、お揃いで」と我々の気迫に少々おののき気味
そして漢方内科クリニックの先生にいただいたサイン入り名刺も押しの一手で渡す。
「ああ、先日学会で会ってね、聞いているよ。」と名刺を受け取らなそうな素振りだったので、
「先生に預かってきたものですから、どうぞ」と私も2人の助っ人がいてくれるおかげで強気になれて引かなかった。
「それでその後どうなの?症状は?」
「あのあと大腸内視鏡検査で病変が見つかって、生検で癌と診断されました。」
「先生、私若くても癌でした!」
ちょっと意地悪を言いました。
先生はバツが悪そうに、参りました〜というような表情を見せました。
この先生は、いかにもモテそうな容貌、スタイルで、とても話しやすい先生
それに消化器の、いや医師会の間ではある程度名が通っている医師のようでした。
それは医療コンサルの電話口担当者、来社した担当者どちらに言っても「聞いたことがあります」という回答からわかったことです。
実は、この時私は本来なら四川省へ出張へ行っているはずでした。
そのことを初診の時にも話していて、その先生も「中国出張へ行ってきたばかりだ」と話を合わせてきました。
内科医は世間話をすることに慣れている。世間話から病状や原因を探る。外科医とは全く違います。
だからスラスラとここまでの病状や経緯を話し、病院選びの選択肢があって迷っていることも話しました。
「こちらの病院へお願いするとしたら、どういう治療方針になりますか?」
話しやすいことと、味方が2人もついてくれることで、普通ならはっきり言わないだろう話もグイグイと聞けた。
「入院してもらってから検査して、具体的に治療方針を決めて行くけど、僕は手術しないから、あとは外科の先生に話を聞いてみてよ。あー今日はオペだな〜午後なら会えると思うけど、時間ある?」
その日の午後は、もう一か所の大学病院の初診予約のため、この後移動する予定だった。
私の治療は早くしたほうがいい!社長の言葉が脳裏をよぎる。
もう今日病院を決める決断の日だ。
その医師は、「じゃあ、お友達もいるしみんなでお昼ご飯でも食べながら、どうするか考えてみて。もしうちで治療すると決めたら、午後外科の先生に会えるようにする。
午後1時半ごろまで僕ここで待ってるから、どうするか戻ってきて教えてもらえる?」
と、やけに臨機応変な態度に私たちは好感を持ったのは間違いなかった。
記録は続く
自分が病気になった時の、周りの反応 -経験と意識の差-
私が癌になって、まずすぐに報告したのは、親ではなく、私のお姉さん的存在の友人でした。
彼女自身の周りに癌になられた方が結構いて、
「自分も癌体質だから気をつけている」ということをよく聞いていたからです。
あの頃、私には2人の良きアドバイザーがいました。
このお姉さん的な友人と漢方内科クリニックの医師ご夫婦です。
非常に冷静に、的確に、必要なアドバイスを導くように与えてくれました。
<今でも覚えている、そして是非シェアしたいアドバイス>
○大病が発覚した時、病院へは絶対に1人で行かないこと
→複数人で医師の話を聞いた方がいいです。
大丈夫と思っていても、いろいろと事実がわかると弱気になるものです。
勝手に治療方針を決められる可能性がある。
また冷静ではいられない時もあるので、第3の目を必ず持つべきです。
○病院、医師は選べるということ
→絶対に信頼できる医師、アフターケアが受けられる病院を納得して選ぶべき
→何事も偏りは良くない。症状に応じて、どういう治療が適しているかを選ぶべき
もし自分が病気になったら、たぶん想像する以上に冷静だと思います。
だけど大きな不安感が襲って来ます。
「治療がうまく行かず、死んだらどうしよう…」「私死ぬの?」
何度もそう思いました。
それまで「別にいつ死んでもいいや」と思ったことも事実ありましたが、
「私死にたくないんだな」と悟りました。
あの時、続けて親や主人、職場の上司と主要な同僚、そしてもう1人友人に話しました。
もちろん聞いてほしい気持ちがあったからです。
親に話した時、もちろん驚いていました。
同時に自分が状況説明しながら、
「あー、心配かけたなーあんまり話さない方がいいかも」と思いました。
周りは「気をつけて」とか「あんまり考えないように」とか、
そんな言葉しか出てこないです。それが当たり前だと思います。
主人は自分の親が癌経験者で、小さい頃からどこかドライなので、わりと冷静でした。
それにあのとき、私は毎日毎日不機嫌で、怒りやすくて、イライラしていました。
どこか病気だと知って、私の不機嫌の異常さに納得したのかもしれないです。
「まじかー」とは言っていましたけど。
会社の人たちも驚いていたけど、
仕事で穴があくことなんて全然心配しないで!と、
とにかく今の仕事は治療に専念することです!と、本当に温かみのあるいい職場でした。
あの頃は!(この辺は後半で書きます)
問題はもう1人の友人でした。
彼女は検査結果がわかった日のつい先日会っていて、
「体調が少しおかしいから検査を受ける」と話していた高校時代からの友人です。
彼女も体調があまり良くないと言っていたので、アドバイスの意味も踏まえて報告しました。
確かLINEで伝えたら、すぐに電話がかかって来て、電話口で泣いていました。
彼女の立場に立てば、同級生の友達が癌になって、しかも進行癌で入院、
そう聞いたら、そりゃあ誰でも不安になりますよね。
でも彼女の泣きながらの話し声は、自分の事の重大さを再認識するものでした。
同時に友人に話すとショックを与えるんだ、と気づいて、
それ以降すでに話した友人以外には、自分からは何も話しませんでした。
自分も相手も不安に駆られることになるからです。
このような思いをしたのは、実はこの時だけでなく、
退院して3ヶ月ほど経った親戚(いとこ)の集まりでもありました。
いとこが結婚するというので、退院して初めて外食&集まりに参加した日
親のネットワークでみんな私の病気は聞いていたのでしょう。
不自然なほど、何も聞いてこなかった。
あの時私は痩せに痩せて、43kgくらいしかなかったし、
私だけ消化のいい特別メニューにしてもらったので、明らかに突っ込みどころ満載なのに笑
ああいう時、むしろどんどん聞いてもらった方が気がラクなものです。
結局自分から話を切り出すと、ポツポツと質問され始めました。
「こんな話をすると結構みんなショック受けるようで、あまり話さないようにしてたんです」
と、私としては少々気を遣っているんですよ、とアピールしたつもりが、
ある1人に、「うん、それでいいと思うよ。話が暗くなるし」と言われました。
この一言は、結婚祝いの場ということと、ある意味私の発言に合わせて、
彼なりに気を遣ったのかもしれませんが、
「話が暗くなる」と聞いて、フツフツと怒りがこみ上げて来ました。
私が退院して、今こうしてパーティーに出席しているのに 話が暗くなる?!
大病を経験するって、千差万別人それぞれ状況とか思いがあると思います。
でも大きな不安と戦って、病院で辛抱して、いろんな思いを感じて克服するのは共通項だと思います。
あの一言は、その場を考えたものだと思いたい。
病気になることは、
不運で、かわいそうで、聞きたくもない、気持ちが落ち込む話なのか?
現に私の親は、嘘ついてまで隠そうとしました。
それは多分あの田舎の狭い地域で、
"知らないところで何を言われるかわからない"という教訓があるからだと思います。
例えば、今年のコロナだってそうです。
田舎で「コロナ感染者」なんて知れ渡ったら、犯人者扱いです。
石を投げられて、その地域に住めなくなるくらいまでに発展する非常に閉鎖的な文化です。
今や、早期発見すれば治る可能性が高い癌でも、田舎に行けばひた隠す対象になり得る。
その辺はやはり首都圏と地方の違いを感じずにはいられません。
でも私は今、本当に元気です。そしていろんな意味で運が良かった。
だからこそ言えるのだろうけど、
私の癌サバイバル経験は、この人生を生きていく糧であり、自信です。
そして生き方を本当の意味で考え直した転換期です。
卑下する必要も、隠す必要もないと思っています。
記録は続きます
私、癌でした。 〜あれから4年、元気です!〜 <病変発見から病院選びまで>
運良く当日に受けられた大腸内視鏡検査で、
自分の腸内が赤赤しくグロテスクな状態になっていたことがわかり、
「癌か結核か 」と不意打ちを喰らったあの日から、
生検検査結果を聞くまでの1週間は非常に苦しい1週間でした。
病名がはっきりしないというのは気持ちの悪いものです。
でも自分の腹の中は、あのグロテスクな状態が確実にあると思うと恐ろしく、
また「癌治療」と聞いて彷彿する
脱毛や抗がん剤でどんどんやつれて行く姿を想像すると、非常に不安になる日々でした。
大腸内視鏡を受けた日から、
マグネシウム剤(腸内の水分を増やし、便をゆるくする薬)を処方され、
腸内に物がつまらないように、
できるだけ消化に良いものを食べる生活が始まりました。
消化に良い、悪い食べ物の知識が乏しかったため、いろいろ自分で人体実験する日々
「とにかく海藻類、キノコ類、根菜類は食べないように」と言われたことを守りました。
<入院1週間前>
生検検査結果を聞きに、その日は主人に付き添ってもらいクリニックへ行きました。
その日には、もうこれまで約4ヶ月の症状を振り返って、
おそらく大腸癌だろうと開き直っていました。
診察室に入ると、
腸内にできたグロテスクな状態は悪性腫瘍で、下行結腸にできた癌だと判明しました。
「これはもう初期ではなく、進行癌です。入院して手術になります。
行きつけの病院はありますか?なければこちらで近くの病院の紹介状を書きます。」
「幸いなのは、できた場所がいい。腸を切れば、根治できます。」
「根治と完治は違います。癌は手術して根治できても完治はできない。」
などなどなど
はあ、、 医者は慣れているからどんどんいろいろ言ってくるけど、
私は「まさか自分が癌⁉︎ 30代前半で?じゃあ20代後半からあったってこと⁇」
ショックが大きく、全然頭の整理ができない。
でも医者はどんどん次、次、次と、
まるでマニュアルの手順を踏むように次々といろいろ言ってくる。
「行きつけの病院がないなら、こちらで作成します。」
特に思い当たる病院もなかったので、それでお願いした。
近くの大学病院に看護師が電話して、そのまま初診の予約もしてもらった。
初診は3日後だった。
<病院選び>
胃腸内科クリニックから出た後、思い立ってすぐに、その時かかっていた漢方内科へ電話した。
今日かかりたいが空いているかと、予約してすぐに向かった。
その漢方内科は漢方医と一般的なお医者さんがいるクリニックで、とにかく事細かく親身に話を聞いてくれた。
だからとにかくこの生検結果を話したい!
その勢いでのことだった。
前回、提携大学病院へ紹介状を書いてくれて、
その大学病院へ行った後、結局なんの検査もせずに帰されたこともすでに話していた。
予約時間が来て、診察室に入ると
「この前診察したばかりですよね?どうしました?」と少し訝しそうに聞いて来た。
「実は大腸内視鏡の生検結果が出て、癌だとわかりました。そのご報告に来ました。」
と告げた瞬間、涙が溢れて止まらなくなってしまった。
漢方医(かわいらしい女医さん)は立ち上がって、すぐに抱きしめてくれました。
「大丈夫、絶対治る!大丈夫だから」と。
ひとしきり泣きました。
その間ずっと抱きしめてくれた先生のことは忘れられない。
そして、「もう一回あの大学病院へ行きましょう!」
「この前学会でその先生にお会いしたんですよ。よろしくお願いしますと言っておきましたので、
もう一度あの病院へ連絡しますので、検査してもらいましょう!」
内心、この大学病院へ行くのは気が進みませんでした。
なぜなら、「若いから、癌の可能性は考えられない」と誤診した病院です。
信用がありませんでした。
でも漢方医は、「こちらであれば術後に私たちがケアできます。」
「とにかくもう一度行って、話してみて」と
すでに予約した別の大学病院の初診日の、午前中に予約時間が決まりました。
そして、先生の名刺に「笑美さんをどうぞ宜しくお願い致します」とサイン入りで書いて、
「これを大学の医師に渡しなさい。何かあったらいつでも連絡して。」と渡してくれました。
この名刺は本当に心強かった。
なにか強い味方、いや保護者がついてくれるようでした。
その時、もうすでに胃腸内科クリニックに
別の大学病院宛の紹介状を作ってもらっているところでした。
でも結局一度追い返されたその大学病院へも行くことになりました。
そして翌日、会社へ出社すると、部長から社長へ私の一大事が報告されており、
「医療コンサルタントの方からその日の午前中コンタクトがあるから相談してください」
と言われ、出社するやいなや電話が来て、これまでの経緯を話し、
午後にはコンサルの担当者さんが会社まで来て、いろいろ説明してくれました。
そして今度はまた別の病院(がんセンター)への手配を進めるような運びになりました。
医療コンサルの存在は知っていたものの、
ずらりと名医の写真と略歴が書いてあるパンフレットを渡されて見てみると、
白い巨塔やドクターXのTVドラマの世界が一気に想像できるものでした。
ということで、
検査結果がわかってから48時間経たないうちに、3つの病院の選択肢が出てきたのです。
一番初めに胃腸内科クリニックで紹介された家の近くの大学病院の予約まであと1日半
自分が進行癌だと知ったショックは漢方医の前で大泣きしたことを境に、
なんかもう漠然とした不安は消えていました。
それよりも現実的な一歩として、
自分の状況に最適な病院選びをしなければならないステージに進んだのです。
とにかく口を揃えて言われたこと、それは、
「早く見つかってよかったね」
でした。
記録は続く